マルクスの夢と、社会主義が敗北した理由。なぜマルクスは資本主義に悪を見たのか

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マルクスの見た夢と、社会主義の敗北

 

労働のむなしさ

日々の仕事に対し、満足感を抱ける人物は幸せだ。

 

そのような人の現状が、本人の絶え間ない努力の結晶であることは違いない。ただ人間関係、そして何よりも運に恵まれたこともマチガイないだろう。例えば、就職状況に恵まれた現在の若者が、就職氷河期真っ只中の90年代に就活をして、果たしてどれほどの人が同じような好条件を得られるのか。

いずれにしろ大多数の人は、生活のためにやむを得ず労働に取り組んでいるのは言うまでもない。憂鬱でやり切れない思いを抱えながら。

 

アダム・スミスとマルクス、2つの異なる考え

仕事と人間の関係についての考え方には大きく分けて2つあって、一つはアダム・スミスのものがある。

アダム・スミス

スミスにおいては、人びとは自らの利己心にのっとって利己主義的に行動することが、結果的に全体の幸せを最大化するとして正当化される。

加えて生産の最大化を目指すため、労働は効率を追求して分業化され、各人が何かの仕事に特化して組織の歯車となることも認められる。

 

 

これは、資本主義そのものだ。

実際、20世紀の工業スタイルのひな型を作ったとされるヘンリー・フォードは、自社工場において生産ラインを分業化し、無駄を省き効率化することで、安くて高品質な製品づくりが可能となる大量生産方式を生み出した。

 

なぜマルクスは資本主義に悪を見たのか

一方、カール・マルクスの考えは、これとは対照的だ。

ここでは仕事とはやりがいこそが肝心で、それが何に結びつくかが重要だとされる。

カール・マルクス

『ゴーダ綱領批判』においてマルクスは、「各人はその能力に応じて働き、各人にはその必要に応じて与える」と記している。大量生産は可能になったが、人びとが歯車としてひたすらに単純労働を強いられ、結果、離職率が著しく上昇したフォードのような働き方とは異なるものをマルクスは考えようとした。

 

すなわち、労働が生活手段ではなく目的そのものとなるような世界を彼は構想しようとしたのである。

 

 

マルクス曰く、現状の近代市民社会においては、人間から共同性が失われてしまっている

共同性とは人々が利己心に支配されず、相互扶助の関係を持つということ。これが失われているのは、利己主義に基づいた資本主義(市民社会)の存在があるからだとマルクスは考えた。

 

ここにおいては人間の利己主義は人間本来のものではなく、今、目の前に存在するブルジョア社会(資本主義の社会)が生み出したものだとされる。

マルクスによれば人間とは社会的諸関係の結合によって生み出されるものだから、経済構造(有名な「下部構造」)が変われば人間そのものも変わり、共同性も回復するはずだ。そのため、利己心を生み私的利害対立を生み出す「私的所有」の廃絶を求めなければならない。

 

著名なマルクス経済学者で日本社会党のブレーンだった向坂逸郎は、LGBTの政治活動家・東郷健氏に対し「ソヴィエト社会主義社会になれば、お前の病気(オカマ)は治ってしまう」と言い放ったとされる。まったくもって論外この上ない発言だが、この発言からはマルクスの下部構造論の考えが見て取れる。繰り返すように「経済構造が変われば人間が変わる」といったものだ。

とはいえもちろん、大多数のまともなマルクス主義者は、このようなことは発想しないし発言しない。

 

マルクスの考えは一見、荒唐無稽のように見える。人間に関するさまざまな行動科学の発展や社会科学における実証的蓄積、因果推論にみられる統計学の発展、もちろんソ連崩壊など歴史的出来事を経験した現代においては、なおさらだ。

数理学的手法が発展した現代の知見から見れば、マルクスの主張は多分において「話が雑」。無理ややりな仮定と前提を置き、大雑把な因果関係を紡いでいるだけのように見える。

 

だがマルクスの理想主義的な話は、当時は熱狂的に受け入れられた。人間には本質的に「利他感情」が備わっているから、そこへの訴えかけが奏功したのだろう。

「金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい」とするキリスト教や、お金を稼ぐことそのものを「執着」や「欲」を生むとして却下する仏教のように、「私的所有」や「利己心」に対し厳しい態度をとる宗教や考え方は多い。

 

社会主義が失敗した理由

しかしながら、マルクスの理想に基づいた社会主義が、結局のところ失敗したのは旧知のところである。その理由はさまざまあるが、最大の要因として挙げられるのは「イノベーション不足」だ。

 

経済学者のケインズやシュンペーターが指摘したように、資本主義においては起業家が高いリスクをとってまで行動を起こす「アニマルスピリット(起業家精神)」が存在する。これがイノベーションの原動力となり、経済や社会に対して豊かさをもたらす。

 

そもそもアニマルスピリット(起業家精神)とは何か。

すなわち、

「この新規事業に失敗したら、会社はつぶれ俺は無一文かもしれない。だけど成功したら、何倍ものリターンが返ってくる。だから俺は、危険なのはわかっていながらも、このリスクを引き受け実行する。」

このような、無謀かつ血気盛んともいえる企業家の行動を生み出す主観的な期待のことを「アニマルスピリット」と呼ぶ。動物的な衝動だから、「アニマル」の名前が付く。

 

そして人々を果敢に行動さす、哲学者ニーチェ言うところの「酒の神 デイオニュソスに愛された」ごとく陶酔的なこの行動メカニズムが、残念ながら社会主義には存在しない政府がイノベーションを生みだすことはできないのだ

すなわち社会主義国では、iPhoneやニンテンドースイッチを創り出すことはできない。

 

これは戦後日本において、政府主導の各種産業政策がことごとく失敗してきたことからも理解できる。城山三郎の小説から導かれるような「優秀な官僚像」「華々しい産業政策の結実」といったイメージと異なり、実際のところ日本の産業政策とは徹頭徹尾、失敗の歴史だった。日本だけでなく、基本的にどこの国においても産業政策は失敗する。これは経済学の多くの実証研究が示している。

 

なお社会主義について「レーニンは正しかった。独裁者スターリンが悪い」「トロツキーが後継者になっていれば」といった類の声を聴くことは多い。ただ、イノベーションを生み出すインセンティブ構造が社会主義においては根本的に無いのだから、仮にこれら歴史の「if」があったとしても、社会主義に勝機は無かったように見える。

 

現代でも重要なマルクスの指摘;現代人の「孤独」

ただマルクスの主張が全く持って見当外れだったかと言えば、必ずしもそうではないだろう。マルクスが指摘した「個と社会の分裂」は、今なお強烈に存在する。

確かにあらゆるすべてが市場を介して取引されるようになったこの世界は、豊かだし便利だ。資本主義が浸透した結果、1800年以来において、人々の平均寿命は2倍以上に伸び、実質所得は9倍以上に、そして子どもを失う率は数十分の1以下になった(それぞれの数値はマディソンの研究より)。これは人類にとって幸せ以外の何物でもない。

 

しかし市場取引が隅々まで行きわたる世界で人間は、地域社会の共同体や宗教的共同体、あらゆる社会関係から切り離されるようになってしまった

自らも労働市場において貨幣価値で量られる商品の一つとなってしまった現代の人びとの姿は、一言で表すならば「孤独」そのものである。