「親学」の問題点とは何か。または制度化され、「学校」により独占された現在の教育の問題点について

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「親学」の問題点とは何か。または制度化され、「学校」により独占された現在の教育の問題点について

 

以前、「親学」についてのちょっとした文章を書いたんですね。

・『埼玉県教育委員5人中2人が「親学推進協会」関係者』(別サイトに行きます)http://socius101.com/saitama-and-education-called-oyagaku-post-30428/

 

・『各自治体に勢力を伸ばす「親学」』

日本全国の各自治体に勢力を伸ばす「親学」
日本全国の各自治体に勢力を伸ばす「親学」 ・名古屋市の「親学推進協力企業制度」 先日、埼玉県教育委員の5人中2人が親学の推進団体「親学推進協会」と関わりのある人物であるとして、ちょっとした話題になっていました。 socius101.com ...

 

「各自治体に勢力を伸ばす「親学」にてまとめた通り、現在各自治体において、確実に「親学(おやがく)」なるもんが勢力を伸ばしつつある状況なんですな。

この「親学」、教育学者で日本会議の政策委員を務める高橋史朗氏が提唱するシロモノで、道徳教育、戦前の教育、「昔ながら」の子育てなどといったものを理想とし、その実現のため親に諸学を教えるというものですね。

まあよくある復古的教育論といえばそれまでなんですが、それが現在、各自治体において行政事業の一環として親学が導入されるまでに至っています。

 

・行政事業の一環として「親学」を取り入れている自治体

岡山県玉野市/青森県/名古屋市/大分県/島根県/栃木県宇都宮市/奈良県…etc

 

 

◆「親学」の何が問題となるのか。そもそも「教育」とは…?

①:「親学」の何が問題となるのか

親学について、名古屋市は次のように説明しています。

・「親学」(おやがく)とは

今日、様々な要因から家庭の教育力の低下が指摘され、一人ひとりの親に対して今一度、家庭を見つめ直すことが求められています。

親は、「教育の原点は家庭にある」ことを認識し、子どもとコミュニケーションをとりながら、子どもを健やかに成長させるために力を注ぐ必要があります。

名古屋市教育委員会が提唱し、推進している「親学」とは、子どもにとって親とはどうあるべきかを考え、子どもとともに成長する楽しさなどについて学ぼうとするものです。

 

一見、何の変哲のない美辞麗句が並んでいます。が、この短い文章一つをとっても「親学」の問題点が透けて見えてきます。落第点だと言わざるを得ないんですよね…。

「家庭の教育力の低下」としてますけど、それって本当なんでしょうか。最近ではEBP(根拠に基づく実践)なんてものの重要性があちこちで言われるようになっていますけど、「家庭の教育力」が「低下」したなんていうエビデンスはあるんですか?

ていうか、そんなもんどうやって示すんですか?

そもそも「教育力」ってなんなんでしょう?

言っていることがあやふやすぎませんか?

 

往々にして、エビデンスを軽んじる人に特徴的なこととして「居酒屋政談ばりの”実感”を、雑なロジックつないで適当に話す」というものがありますけど、「親学」はその典型のように見えちゃうんですよね。残念ながら。

 

それにしても、人間がとらえる「実感」なんてまあ概していい加減なもんなんなですよ。自分にしても、実感でモノを離さないよう気を付けたいもんですな。

『反社会学講座』という本は、その点を実に面白おかしく描いていてですね、「少年犯罪の増加」「学力低下」「人間の悲観主義」などのトピックに対し、単純なデータから鋭く通説を覆しています。

 

 

②:学校が独占した教育に対する、イリイチの指摘

それにしても、そもそも教育ってなんなんすかね…。

 

例えば受験勉強が代表的ですけれど、これまで日本の教育が、どれだけ理想を並べようと内実としては資本主義社会に対応するための人的資本能力(お金を稼ぐ能力)の向上が目的であったこと、すなわち、企業戦士育成装置としての側面が大きかったことについては異論はないでしょう。

 

文明批評家のイヴァン・イリイチは現代社会(近代)における教育について、次のように述べています。

 

『学校化』されると、生徒は教授されることと学習することを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。

彼の想像力も『学校化』されて、価値の代わりに制度によるサービスを受けるようになる。医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、同じようにして、社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、警察の保護が安全であるかのように、武力の均衡が国の安全であるかのように、あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。

『脱学校の社会』東京創元社

 

 

イリイチが指摘したように、学校教育の問題点とは「価値の制度化」にありました。

すなわち、学ぶことを学校が独占し、そこで教師なり教授なりによる情報の一方的な伝達が行われる。それにより、いつしか学ぶことに対し自然と受動的な態度が生まれ、それを当然とみなしてしまう。自らが主体的に能動的になって行う「学び」が失われてしまう。

 

また「学校」という制度に乗っかかれば、とかく学んだ気になれる。

実際のところ僕たちは、学校だけで学ぶのではなく、さまざまな生活空間で話し、感じ、触れ、愛し合い、分かち合い、働き、そして考えるというのにー。

 

◆◆◆

 

③:親学の成立背景とその問題点

そのため学校に基づく現代の教育制度には、さまざまな人たちから、多くの批判が寄せられることとなりました。

今回テーマにしている「親学」は、現代の学校制度に対する右派からの、ロマン主義的な回答の一つと言えるでしょう。

「ロマン主義的な回答」としているのは、これは社会学者カール・マンハイムが定義するように、右派ないし保守主義というのは基本的に直観主義・主観主義・実感主義をテーゼとしており、それは概してロマン主義的なものと結びつきやすいからです。

 

・「ロマン主義」とは

18世紀後半から 19世紀前半にヨーロッパで興った文学,哲学,芸術上の理念や運動。個性や自我の自由な表現を尊重し,知性よりも情緒を,理性よりも想像力を,形式よりも内容を重んじた。

出典:コトバンク

 

もっとわかりやすくありていに言えば、目の前にあるものに具体性を感じ、実感を持って接することができるかであります。だから教室での座学を飛び越え、どうしても課外授業など体験型のイベントが多くなる。

 

例えば親学と思想的バックボーンが同じといえる、安倍内閣での教育再生会議(現・教育再生実行会議)にそれが典型的です。

 

 

 

この会議のホームページを見ると、徳育、自然体験活動、ボランティアや社会奉仕など社会運動といったものの重要性が強調されている。そのような学校外での事柄の強調は、学校による教育の独占化を批判したイリイチと共通するところがあります。

 

しかしながら、親学に対しては数多くの批判が寄せられている。ここにおいては、主観主義だとか実感主義といったものの欠点が露骨に現れています。

すなわち論理やら科学的思考、実証といったものへの軽視が顕著であって、親学を推進する議員連盟である親学議連による「発達障害も、子育て次第で予防は可能」「日本の伝統的な子育てで子どもの発達障害が直る」といった発言は、その最たるものと言えます。

 

親学議連:「発達障害、予防は可能」…抗議殺到し陳謝

超党派の国会議員でつくる「親学推進議員連盟」が5月末「発達障害を予防する伝統的子育て」をテーマに勉強会を開いたことが分かった。(中略)

配布資料には発達障害児の育児環境を「(子どもへの)声かけが少ない」とした表や「発達障害児は笑わない」「予防は可能」などの記述もあった。

発達障害は子育ての問題だと受け取られかねない内容に、関係者の抗議が殺到、議連側は最終的に陳謝した。

毎日新聞 2012年06月12日 02時30分

 

個人的な経験談を綴らせてもらうなら、僕は以前、発達障害や自閉症といった個性を備えるお子さんと関わる施設で働いていました。

具体的なことはお子さんのプライバシーもありますから書けないですが、そこにおいては、社会の深淵を覗いた気持ちになったことがあったのは事実です。それは発達障害や自閉症に対する社会的な理解が進んだとされる現代においても、です。

 

「日本の伝統的な子育てで、子どもの発達障害が直る」「発達障害の予防は可能」「伝統的子育てで、2歳の自閉症児が正常に戻った」などといった親学の主張が、我が子が自閉症と診断された両親を苦しめることになるだろうことは、想像に難くありません。